若かりし父も受験勉強をそれなりにやってきましたが、今思えば「あんなやり方ではなく、こんなやり方をすれば良かったな~」と思うことがたくさんあります。
父の遺伝子を半分は受け継いでいるわが子において、放っておいたらきっと同じような勉強法を繰り返し、失敗や後悔をしかねないとの思いもあって、わが子の受験に少々関わることといたしました。
「インプット」だけでは戦えない!?
「限られた時間内で、できるだけ大量の情報を、他に抜きん出て、どんどん頭に叩き込み、良い成績を上げる。」
一見非常に理想的で、至極まっとうな勉強法でありますし、「まじめでおとなしかった」若かりし父も含めて、多くの方が実践している、ごくありふれた勉強法であります。
このやり方においては、詰め込む量が多ければそれだけ受験に有利にはなります。
ただし、詰め込める量がいかに多かったとしても、「試験本番」で、詰め込んだものをスムーズに取り出せなければ(アウトプットできなければ)勝負になりません。
自分が学んだことを、正しく、わかりやすく「試験」で表現できるかどうかが、合否を分けることとなるのです。
インプットは、学びのスタート地点であり、基本ではあります。
ただ、インプットばかりの勉強法では、試験で「ここまで出ているのに」ということが起きたり、「記憶が混濁」したりして、よい結果には至りません。
父のイメージでは、インプットだけでは、錆びつきやすい武器を、ごちゃごちゃ手持ちにできるけど、ここぞというときの切れ味がイマイチなのです。
ですが、アウトプットによって、これらの武器が研ぎ澄まされ、輝きを放ったまま整然と並び、いつでもスパッと切り裂くことができるようになるのです。
若かりし父が選択した日本史と世界史では、膨大な量のインプットで精一杯であり、ついぞ記憶が定着することはなく、切れ味がサッパリでした。
英語では、正しく発音できないものは、正しく聞き取れないので、長文読解はナントカできても、「リスニング」能力がなかなか向上できませんでした。
これは、「話す」(アウトプット)を疎かにしていたせいだと思います。
こうして若かりし父は、現役時代においては、上手に「出力する訓練」が圧倒的に不足していたにも関わらず、難関校を受験するという匹夫の勇を見せ、みごと東京の予備校へと出立することになったのでした…
武器を研ぎ澄ますには?
せっかく学んだことを、錆びさせずに輝きを放つ武器にまで仕上げるには、まずは「アウトプット」の視点をとりいれ、どんどん「出力していく」必要があります。
今や、ベストセラー本「アウトプット大全」により、広くアウトプットの有効性が知れ渡っておりますが、当時はそれほどまでに強調されることはなかった感があります。
とはいえ、いにしえより、「学んだことは、他人に教えなさい」との教えもあり、当時から「他人に教える」を行っていた同級生はやはり成績がよかったものです。
「人に教える」ことができるためには、明確に思考が整理されていなければなりませんし、あいまいな知識ではこと足りないのです。
なお、インプット自体は、すべての学びの基本であり、スタート地点であります。
(インプットなくしてアウトプットはありえません。)
どうせインプットするのなら、将来のアウトプットを意識した「アウトプット前提でのインプット」をすることにより、学びの質及び効果が、劇的に向上します。
そしていよいよ、実際に何かしらの形で、「アウトプット」をすることにより、インプットした内容が定着し整理されていくのです。
(まじめでおとなしかった若かりし父は、これができずに、武器を錆びつかせていました…)
アウトプットにも、様々なタイプがあり、「教える」は典型ですが、「声に出す」、「マーカーする」、「書く」、「メモする」といったことも立派なアウトプットです。
こどもの英語学習においては、「声に出す」シャドーイングを徹底しましたし、教材や新聞記事にも、必ず1ページのうち1箇所は、重要箇所を「マーキング」しました。
地理や英作文では、ドリルのような「書き出す」タイプの教材を選んだものです。
「メモをとる」といった些細な行動においても、備忘録として物理的に紙を残しておくだけでなく、メモ行為自体のアウトプットにより、記憶が強化されたり、考えが整理される役割を担っているのです。
おまけ
そう言えば、若かりし父が授業中に、当時は理不尽とも思えた叱責を受けたことを思い出しました。
なにが理不尽かというと、授業を集中して聞いていたところ、教諭から「メモをとらんかい」と叱られたのです。
当時は、「全て頭のなかに入れているのです。何が悪いのでしょうか」と小憎らしく反発したものでしたが、今にして思えば「アウトプットの重要性」を教えてくれていたのかもしれません。
※あるいは、単純に「こいつ聞いてないな」とか「腕組みなんかしやがってえらそうに」とか思われただけなのかもしれません…
今でこそ父は、偉い方のお話には、(仮に大した内容でなくとも)メモをとるなり、とる姿勢だけをとったりするほど、「素直で、ソツのない大人」へと成長を遂げましたが、もっと早いうちに、学生の頃の叱責時にでも、このアウトプットの重要性に気付けていればよかったのになぁ…と嘆いております。
ブログの作成だって、立派なアウトプットです。
遅ればせながらではありますが、たま~に、思い出したように、ブログ記事を更新し、アウトプットを積み重ねていけるよう、努力してまいる次第でございます♪
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